今回のバスフィッシング界の偉人は、スピナーベイトの釣りで有名なジミーヒューストンさんです。1944年7月オクラホマ州で生まれたジミーヒューストンは、釣りをこよなく愛し少年時代からアメリカで最も有名なトッププロに成るまでに、人生を通して情熱と忍耐の大切さを教えてくれるアングラーです。
好きな事を続けるには、経済的な部分の支えがあるから続くのですが、ジミーヒューストンさんは極貧な時も夢を諦めずに走り続ける精神の持ち主です。食べる事に事欠く状態になっていたそうなので、周りから辛い事を言われたり、逆に手を差し伸べる人との出会いもあったと推察されます。
また、アメリカのアングラーによく見られるようにジミーヒューストンさんも信仰心が強い方で自分を律する生き方を貫いているので、自分と他者や環境に対しての影響を考えた生き方には学ぶべきことがあると感じました。
近年ではローランドマーチンとビルダンスと共にフィッシング製品を販売する会社Th3 Legendsを設立したことも話題ですね。
では!! 不屈の精神とは!「ジミーヒューストン」の人生から学ぼう!の始まりです(^O^)/
ジミー・ヒューストンは貧乏生活でも試合に参加し続けたトーナメンター!
1944年7月28日にオクラホマ州はムーアで誕生し、高校3年生のときにオクラホマ州クックソン近くのテンキラー湖に引っ越し、子供の頃からバスフィッシングを楽しんでいました。
父親がテンキラー湖畔にロッジを所有していたこともあり、当時、開催されたワールド・シリーズ・オブ・スポーツ・フィッシングに出場する全米トップクラスのアングラーたちを見ているうちに、ジミーヒューストンはすぐにトーナメントの魅力にとりつかれました。
練習中に何人かの選手と一緒に釣りをしているうちに、ヒューストンが気づいたことは、選手たちのキャスティングの正確さでした。幼いヒューストンは練習を重ねてキャスティング技術を修得するようになりました。高校卒業後のヒューストンは、弁護士になる為にノースイースタン州立大学に進学します。大学では政治学と経済学を専攻し、リベラルアーツの学士号を取得します。
しかし、様々な理由から法科大学院に進んで弁護士になる事は諦め大学卒業後は、妻のクリスと共に保険代理店を立ち上げます。
その頃は、景気も傾き不況でしたのでPB&Jは高級料理だったと語っています。PB&Jとは、ピーナッツバターとフルーツのジャムまたはジェリーをパンに塗ったサンドイッチのことです。外食することは、ヒューストン一家にとって贅沢な行為でした。
当時の事を「餓死寸前だった」とジミー・ヒューストンは回想するほど生活は厳しく、「釣った魚や撃った獲物以外は何も食べずに1ヶ月過ごしたこともあった」と極貧状態を語っています。
1968年にアラバマ州で行われたBASS史上5回目のトーナメントから参戦しますが、トーナメントツアーも当時は明らかに華やかではなく、今では、宿泊はホテルが普通ですが、昔はそうではなかった。夜通し運転して、ボート乗り場で寝る生活でした。
家に帰るためにトーナメント賞金を稼がなければならないこともあったり。整備工場に持ち込む余裕がなくて、トラックの修理で道端に止められたことも何度もあった。夜中に自動車用品店の店主に電話して、動く状態に戻れるようにオルタネーターを売りに来てもらったこともあったそうです。
ヒューストンが初めてメジャートーナメントで優勝したのは、大学4年生だった1966年のオクラホマ州選手権と、レイク・アミスタッドで開催された初期のプロジェクト・スポーツ・インク(PSI)の年末のクラシック選手権でした。当時のトーナメントの収益は、今日とはかけ離れたものでした。ヒューストンは初の全米優勝で6,000ドルを獲得しました。
スポンサーからの支援もわずかなもので、彼の最初のプロモーションは、一握りのミスター・ツイスター・ワームの無料配布と、それを試して欲しいという依頼だけでした。
しかし、努力を重ねる事で、保険代理店も成長を続けあらゆる保険を扱う総合保険代理店へと成長させます。また、副業としてボートの販売も行いながらトーナメントに参戦していたそうです。その後は会社を売却してフルタイムでトーナメントに参加していきます。
ビール会社のロゴが入ったトーナメントシャツは着れないと選手を引退する
しかし、ヒューストンのキャリアのプロモーション面は、初期の頃から徐々に形になって行きます。彼は代理店のバックルームで作ったジミーヒューストン・レッドマン・スピナーベイトで収入を補います。サム・ウォルトンとの友情は、彼のルアーを後に巨大小売店であるウォルマートへと導く事になります。
「面白いことに、今ではウォルマートには私の名前と写真がパッケージに入った商品がたくさんあるんだ」とジミーヒューストンは語ります。
ジミーヒューストンをスターダムに押し上げ、その名を世に知らしめた最大の要因は、間違いなく全国的なメディア・プラットフォームである「Jimmy Houston Outdoors」の成功です。
ビル・ダンスの影響もあるのかもしれませんが、1976年にジミーヒューストンがホストを務める釣り番組「Jimmy Houston Outdoors」が放送されます。ビル・ダンスは自身のテレビ番組を始めた時には現役を引退しましたが、ジミーヒューストンは現役選手を続けながら週1回のテレビ番組に出演し続けます。
この辺りから、ジミーヒューストンの成功は続きます。バスマスター・クラシックを15回戦い、1976年と1986年のB.A.S.S.アングラー・オブ・ザ・イヤーを2回獲得し、キャリアで100万ドル以上の賞金を稼ぎ、30年以上テレビで活躍します。
そしてウォルマートFLWツアーで最も人気のあるアングラーの一人になり、急成長するビジネスを経営しながら、息子のジェイミーと娘のシェリーを育てます。
30年以上、続くJimmy Houston Outdoorsですが、ESPNによって製作されていた、20年間では常にナンバーワンのアウトドアショーにランキングされていたそうです。
ジミーヒューストンは宗教心の強い方で、2005年のトーナメントのメイン・スポンサーがビール会社が付くことになり、ビール会社のロゴの入ったトーナメントシャツを着る事で青少年に影響を考えると考え、順調に試合成績をを積み上げていましたが、クラシック出場を断念し37年間のBASSのトーナメントからも去る決断をされます。
ヒューストンの釣り界への貢献は、タックル開発にとどまらない。彼は5冊の本を執筆、そこでは彼の信仰と釣りへの愛が絡み合った代表作のひとつである『Catch of the Day』は、彼の精神的な旅と釣りの芸術を並行させたディボーション(信仰書)が記されています。
奥さんのクリス・ヒューストンは女性初のバスフィッシング栄誉殿堂入りを果たす!
奥さんのクリスもアメリカのトップアングラーとして活躍し、2005年に、プロフェッショナル バスフィッシング栄誉殿堂に女性として初めて殿堂入りしています。
ジミーヒューストンも1990年にナショナル フレッシュウォータに栄誉殿堂入りします。2002年にプロフェッショナル バスフィッシング 栄誉殿堂、2008年にはIGFAのフレッシュウォーター フィッシングとアウトドア伝説の栄誉殿堂に殿堂入りします。2004年にはジム ソープ マン オブ ザ イヤーに選ばれました。
ジミーヒューストンの歴史は、単なる個人的な業績の記録ではなく、世代を超えて釣り人を鼓舞する物語であるとも感じます。彼の人生の物語は、十分な献身性があれば、自身の人生を開く事が出来る事を、釣り人としての立場で示しボクたちを勇気づけてくれます。
ジミーヒューストンは、「最も重要なことは、誰に対しても特別な扱いをすることを学ぶことだと思う」と語ります。更に「誰かに親切にするのにお金はかからない。何時間もサイン待ちの列ができているとき、私たちは彼ら一人ひとりを特別扱いしている。」
おわりに
最後までお読みいただきありがとうございます。今回のバス釣り界の偉人、ジミーヒューストンさんのライフストーリーは如何だったでしょうか? バスフィッシングに掛ける思いが半端なく伝わったと思います。生活苦でも自身の力を信じて進み続ける大切さは、人として学べる部分ではないでしょうか?
ボクはX(旧Twitter)でもバスフィッシングの情報を発信しています。記事を読んで興味を持ってもらえたら「X(旧Twitter)のフォローやいいね!」を頂けると今後の活動の励みになります。また、記事の感想などがあれば、お問い合わせフォームからコメントして下さい。
不屈の精神とは!「ジミーヒューストン」の人生から学ぼう!の記事があなたのバスフィッシングライフのサポートになれば幸いです。
では!! よい釣りを(^O^)/
コメント