「Bagley Bait Co.の生みの親!」バス釣り界の偉人ジム バグリー!

バスフィッシングの偉人達

今回のバス釣り界の偉人はBagley Bait Companyを立ち上げたジム バグリー氏です。ボクがバス釣りを始めた時に一番、お世話になったルアーメーカーでもあります。

ジム バグリー氏は世界恐慌や戦争も経験され、大変な中ではありながら、自身の夢を叶えられた情熱的な人生を送られた人物です。3500ドルでポークリンド会社を購入しバルサで高品質なルアーを作り出す事を成功させ、晩年にはフィッシングライン業界へも参入されます。

ジム バグリー社長の記事を書くに辺り、幸運にもBagley Bait Companyに深く縁のあるヒロ内藤さんからジムバグリー氏の人柄に関するお話も聞けましたので、ご紹介しますね。

では!!「Bagley Bait Co.の生みの親!」バス釣り界の偉人ジム バグリー!の始まりです(^O^)/


1923年7月24日、フロリダ州 ウィンターヘブンにジム バグリー氏が誕生!

1923年7月24日、フロリダ州 ウィンターヘブンにジム バグリー氏(JIM BAGLEY)は誕生されました。幼少より釣りを楽しまれ、釣りとは関係ないですが、飛行機が大好きなことでもルアー業界では有名な方です。

ジム バグリー氏は一家の大黒柱であり、働き者の母親に育てられ、人生において自分が本当に望むことは何でも成し遂げられると教えられます。ジム バグリー氏の最初の仕事は、7歳のときに「製氷工場」で藁を引く仕事だったそうです。

ジム バグリー氏はパイロットになるのが夢でした。世の中は第二次大戦中になりアメリカ陸軍航空隊の戦闘機のパイロットを目指しますが、視力に問題がありパイロットにはなれませんでしたが、爆撃機の砲塔砲手としてヨーロッパで従軍し勲章も授与されます。


1954年! 3500ドルでポークリンド会社Bills13を購入して事業をスタートさせる!

戦争が終わり、地元のウインターヘブンに戻ってしばらくは電気の配管工として働きますが、長年好きだったルアーフィッシングで生計を立てたいと考えます。

そして、フロリダ州バートウにあるエガー・ベイト・カンパニーのビル・エガーのもとで働きます。ジムはエガー氏から労働倫理と高品質のフィッシング・ルアーの作り方を学びました。

1954年に休眠状態だった地元のガレージショップだったポークリンド会社、Bills13を3500ドルで手に入れBagley Bait Companyを立ち上げます。写真は元、Bills13であった建物で後に洋服のお直し店になったそうです。

1955年に従来のポークリンドからワームの形に伸ばした形のブラック・マジックイールを売り出します。ブラックマジックイールというポークは従来のポークチャンクの形だけではなく、ワームの様に長く伸ばしたデザインを作り出します。

ジム バグリー氏とブラックマジックイールについて、フィールド・アンド・ストリーム誌で「That New Black Magic」として掲載されます。雑誌に掲載された事でブラックマジックイールは話題になり事業が拡大しウィターヘブンの小さなビルに店を構えます。

記事の内容はブラック・マジックイールの使い方を細かく説明されています。ロッドの角度やリトリーブスピードはスローにし、バイトがあった後のフッキングのタイミングなどが書かれています。


1960年バンゴーミノーの誕生! バグリーのルアーは最低でも35工程の作業を経て完成される!

バグリー社長はバルサ素材がルアーを作る上でとても素晴らしい素材であると考えていました。しかし、バルサ素材は軽いので、ベイトタックルでは投げにくい、その弱点を克服する為にキャスタビリティーの高いバルサ製のルアーを作る事に挑みます。

バグリー社の最初のバルサルアーはウォークン・トゥピードというスイッシャープラグと言うルアーでBANG-Oの前身になるルアーです。バグリー氏の次の目標は当時、アメリカに入ってきたラパラを超えるルアーを作ることでした。そして1960年に生まれたのが、BANG-Oミノーです。

このバグリー社のハードルアーは最低でも35工程の作業を経て完成されるそうです。当時はバルサによるハードルアーの製造経験がなかったので、失敗を繰り返しながら削り出しの機械や作業工程の見直しを繰り返し、夜遅くまで仲間たちとアイデアを出し合いながら作業していたそうです。

2024年1月24日のSAVAMのYouTubeライブでバグリールアーの製造に関して機械から作りあげた部分の詳しいお話をヒロ内藤さんに質問し伺う事ができました。

バングオールアー等のルアーのボディ成形を機械で削り出す3Dのナライの機械を作り出したそうです。このナライの機械は大きなルアーのモデルボディの外観をなぞる事で縮小されたサイズのルアーのボディを削り出す器械です。この機械を一から従業員たちの力で作りあげたというのですから驚きです。

また、良質なバルサという材料を探す為にバグリー社長は南米を調べ歩いたそうです。バルサを使う事により製品の管理が大変だったようです。

バルサは日当たりによって成長スピードが違い密度もそれぞれの木によって違い日の当たらない場所で成長したバルサは密度が濃く比重が重たくなり、日なたで育ったバルサは比重が軽く品質が良いそうです。そのためバルサの密度を3段階に分けてチェックしなければならないようです。

この密度の仕分け作業にも独自の器具を作られて行われていたそうで、色分けされた釘にバネが付いたモノでバルサに釘を刺す事で刺さる深さで密度を測るそうです。密度の高い比重の重いモノはクランクベイトのボディに使われ比重の軽い高品質なバルサはバングオーに使われたそうです。


バグリー社のルアー製作技術はレーベル社やコットンコーデル社の技術も注ぎ込まれていた!

コットンコーデル社のメッキ技術を施されたDB3マグナム

また、2023年6月23日にイレクターズでヒロ内藤さんからバグリー社のルアー作りの技術につしてお話を伺う事が出来ました。ボクたちが何気なく手に取っていたメッキ処理が施されたバグリーのルアー達ですが、実はバルサにメッキ処理を施すのが技術的にとても難しかったそうです。

この技術を可能にしたのは、コットンコーデル社からバグリー社に転職されたメッキ処理に詳しいエンジニアの存在があったからです。ルアーのボディにアルミを巻いて真空状態にした機械の中でメッキをする高い技術だそうです。

そして、ボクが疑問に思っていたバグリーベイトカンパニーのレーベル社の技術の交流についてもお伺いする事ができました。アメリカンルアーもリアルペイントが流行った時代がありました。

レーベル社のルアーのプリントの技術はとてもリアルで素晴らしいモノだったのですが、それの技術をバグリー社に伝えた理由も聞く事が出来ました。実はバグリーから技術を教えて欲しいという訳ではなくレーベル社の社長のジョージペレン氏が独断で行ったようです。

上がレーベル社のベイトフィッシュシリーズ 下がバグリーのスモールフライシリーズ

バグリー社にプリント技術を提供する事にレーベル社の従業員は反対されたそうですが、ルアー作りの先輩であるバグリー社にお近づきになりたいとジョージペレン氏は思っていたそうで、プリントの技術から機械まで全てのノウハウを提供されたそうです。

こうしてバグリールアーのリアルプリントされたスモールフライシリーズ等のルアーが登場する事になります。本物そっくで素晴らしいクオリティーのルアーはこんな経緯で誕生します。

また、バグリー社のルアーは2003年と2004年の両クラシック優勝を含め、4度のバスマスター・クラシック優勝にバグリーのルアーが貢献しました。


1983年にヒロ内藤さんがバグリーに入社する背景には西山徹さんの存在が大きい!

西山徹さん

ヒロ内藤さんが西山徹さんのアメリカ取材を手伝っていました。取材先のバグリー社に立ち寄った時に航空力学の大学出身という事でバグリー社長と飛行機の話で盛り上がった事などが切っ掛けでバグリー社に誘われます。

因みにバグリー社長は鮮やかなオレンジ色のヘリコプターに乗ってタックル ショーやトーナメントに現れていたそうです。

内藤さんは釣りが大好きな趣味なので、仕事にする気は元々なかったのですが、西山徹さんとの取材の仕事のなかでバス釣りの最先端を見たいと考えます。

西山徹さんにも相談したそうで、西山さん曰く釣り具メーカーに勤めると釣りに行けなくなるとアドバイスを受けますが、内藤さんは釣りも仕事も両立できるように努力すると話されたそうです。

こうして、1983年にヒロ内藤さんはバグリー社に入社されます。住まいも会社から近いアパートに住んで、朝釣りをしてから出社していたそうです。バグリー社は後に約200人を雇用する程の会社に成長します。


初代シルバースレッド誕生は徳永兼三さんからのプレゼントされたラインが切っ掛け!

ヒロ内藤さんからバグリー社からシルバースレッドが生まれる前夜のお話が聞けたのでご紹介します。シルバースレッドの誕生の切っ掛けになったのが、実は徳永兼三氏からプレゼントされた日本製のラインから物語が始まります。

この日本製のラインがもとで、ヒロ内藤さんは一日に社長室に2回も呼び出される事になります。その理由は、このラインをバグリー社の仲間にプレゼントした事から端を発します。

その人が社長にヒロからラインを貰ったと社長に話したので、内藤さんは社長室に呼び出されます。社長は可愛がっていた内藤さんからラインを貰えなかったので、「私には、日本製のラインは貰えないのかなぁ?」と聞かれたそうで、内藤さんは、そんなつもりはサラサラない事を伝えたそうです。

バグリー社長はその日、一泊予定のキャンプに出掛けてキャンプ先で釣りを楽しむので、そのラインを使ってみたいと言い、ラインを持って出かけたそうです。

ところが、一泊するはずの社長が戻ってきて、内藤さんを社長室に来るようにと呼ばれます。社長室に行くと、キャンプ先で、このラインを使ったら性能に驚き、このラインをバグリーから販売する事を思い立ったので、キャンプ場から数時間かけて帰って来たそうです。

内藤さんはライン業界への参入はリスクが高いので、止めるよう社長に進言しますが、その日バグリー社長は「ヒロそう言うな考えといてくれ」と言われます。

次の日もバグリー社長と内藤さんは談笑していましたが、ラインの話になったので、内藤さんは再度、ライン業界への進出にやめる様に伝えると「ヒロ! お前はBerkleyの回し者か?君の給料明細には誰の名前が入っているんだ!」と怒られたそうです。

ヒロ内藤さんは、ここまでバグリー社長が言うのだから何かあるに違いないと考え、明日、3度目の進言に対して社長の意志が変わらなかったら社長の意志を受け入れようと思ったそうです。翌日、社長に確認すると意志は変わらなかったので、ライン業界へのアタックを開始したそうです。

これが、初代シルバースレッドが誕生する切っ掛けになったお話です。この事が切っ掛けで品質の向上が停滞していたアメリカのラインメーカーにシルバースレッドが一石を投じます。1983年から1993年にかけて、”Bagley’s Silver thread Fishing Line は「スーパーラインブーム」の火付け役となります。


1988年Bagley Bait Co.はルアー部門をBilly Stewart Jr.へ売却する

1980年代後半、バグリー氏は心臓発作を起こして体調面も良くなかった事もあり、会社のルアー部門をBilly Stewart Jr.へ売却し、友人や家族と釣りを楽しむ生活に戻ることを決めます。

バグリー氏がいなくなった会社は勢いを失い、製造基準が変化した結果、バグリー氏がオーナーであった時代に製造されたオリジナルのバグリールアーよりも品質の悪いルアーが作られるようになったそうです。

Billy Stewart Jr側からも内藤さんに助けを求めたのですが、内藤さんはバグリー社長に付いて行ったのでバグリー社長に聞いて下さいと伝えたそうです。

そこで、Billy Stewart Jrはバグリー社長に相談します。バグリー社長はバグリー社のライン部門を管理していたヒロ内藤さんに、私の名前が付いた会社の業績が悪いのを見るが辛いので、バグリールアーの立て直しに力を貸してあげて欲しいと話します。

ライン部門がプラドコに買収されるまでの期間、ヒロ内藤さんはバグリールアーの立て直しに協力します。この期間、ヒロ内藤さんはダブルワークで頑張っていたそうです。


おわりに

ジム バグリー氏は、2004年2月、80歳で他界されます。ジム バグリー氏の人柄についてヒロ内藤さんから貴重なお話を聞く事ができましたので、ご紹介します。

奈良県の池原ダムにフロリダバスを移植するプロジェクトを西山徹さんから相談されたヒロ内藤さんはバグリー社長に相談します。バグリー社長は内藤さんを見つめてこう答えます。「この話はまだ、誰にもしていないのか?」内藤さんは断られると思いながら返事したそうです。

するとバグリー社長は「フロリダバスの稚魚の用意と空港までの資金を全額出す」と言われたそうです。バグリー社長は日本が大好きな方だそうで、日本のアングラーに協力したと考えられたようです。この後、様々な人達の尽力により、池原ダムにフロリダバスの稚魚が放流されます。

また、アメリカの釣り具業界は保守的な業界で黒人のビジネスマンも当時は存在しなかったそうです。そんな中でも、このような慣習は業界をダメにすると考えられ、業界の中でもバグリー社長は人種の差別をする事に異を唱える数少ない人の一人だったそうです。

そのお話を聞いて、だから日本人であるヒロ内藤さんの事も受け入れて会社を育てて行ったんだとボクは感じました。また、バグリー社長のお話をしているヒロ内藤さんの嬉しそうな表情が印象的でした。

ジム バグリー氏は、釣具業界への貢献に対して贈られるプラドコ・レジェンド賞、ドルフィン賞、アメリカン・スポーツ・フィッシング界の生ける伝説賞、ビッグビジネス・ゴールドカップ・オブ・インダストリー賞など、多くの賞を受賞し、国際釣具殿堂のチャーター・メンバーシップも授与されます。

今回のバスフィッシングの偉人達の記事があなたのバスフィッシングライフのサポートになれば幸いです。


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