「第一回BassmasterClassicの優勝者!」ボビー・マーレー!

バスフィッシングの偉人達

ボビー・マーレー氏がアメリカ全土で名を馳せたのは、1971年にネバダ州のレイク・ミードで開催された初のバスマスターズ・クラシックでの優勝がきっかけです。

この勝利によって彼の名前は歴史に残り、1978年のロス・バーネットでのバスマスターズ・クラシックでの勝利は、彼が伝説的な人物であることをさらに証明しました。

バスフィッシングだけでなく、アラスカでトラウトやサーモンを釣り上げ、マスターアングラーの称号を得ました。さらに、ソルトウォーターフィッシングでは、964ポンドのマグロを含む多くのトロフィーフィッシュを獲得しました。

では!! 「第一回BassmasterClassicの優勝者!」ボビー・マーレー!の始まりです(^O^)/


1945年、ボビー・マーレー氏 アーカンサス州で誕生

1945年、ボビー・マーレー氏はアーカンサス州で生まれました。彼の両親は牧場を営んでおり、庭にある池でバス釣りを楽しんでいたといいます。彼が7歳の時に初めて手にしたルアーは、スミスウィック社製のデビルズホースでした。

サンダーストームが迫る悪天候の中でも、親に内緒で新しいルアーを試すのを我慢できなかった釣り好きな少年時代があったようです。

大学を卒業したボビー・マーレー氏は同州のトレンドベンドというバス釣りが盛んな湖へ移り住み、ガイドを始めます。

ボビー・マーレー氏は、ガイドの仕事をしつつ1969年6月にB.A.S.S.トーナメントに初出場しました。その後、ユファウラ湖で開催されたB.A.S.S.トーナメントで初優勝を果たし、全米の釣りファンの注目を集めることになりました。


1971年10月22日 第一回、バスマスタークラシックで優勝する!

B.A.S.S.トーナメントに初出場から、2年後の1971年10月22日に開催された最初のバスマスタークラシックでボビー・マーレー氏は優勝しました。

当時、ミステリーレイクという開催地は参加者には秘密にされており、彼らがラスベガスのレイクミードに到着するまで何も知らされていなかったそうです。第1回バスマスタークラシックのオフィシャル艇はルアーメーカーのレーベルがボートを作り用意しました。

当時、ボビー・マーレー氏はバグリー社に勤務しており、バグリーのルアーで優勝することを望んでいました。しかし、クラシックの当日はスピナーベイトが有効なパターンであり、彼の願いは叶わなかったそうです。

クラシックのボートはレーベル社が用意した

クラシックの勝利に続き、ボビー・マーレー氏はPSIでも優勝を果たしました。PSIはプロジェクト・スポーツ・インクの略称で、当時はB.A.S.S.に匹敵するメジャートーナメントを開催していた団体で、現代で言えばFLWに相当します。

PSIでの優勝後、友人たちはビッグタイトルを2つ獲得したからと引退を勧めたようですが、当時26歳でスポンサーもついて順調だったため、引退することは考えていなかったと言います。

1978年に2度目のクラシック優勝を果たしますが、その後転機を迎えます。3年後、家族に不幸があり、新しい仕事の機会も見え始めていたため、迷いつつもケンタッキーレイクの大会に出場します。

この時期には、ビッグフィッシュのパターンを掴んでいたと言われていますが、暴風の中でローランド・マーチンやリック・クランが滑走する姿を目の当たりにし、自問自答の末、1981年に36歳でトーナメントを引退しました。

彼は引退後、様々なビジネスで顕著な成功を収めました。クラシックの初代チャンピオンであり、複数回優勝した6人のアングラーの一人として知られることは、彼にとって大変な名誉です。彼のトーナメントでの実績は、11年間でクラシックに9回出場し、2度の優勝を飾るという驚異的なものです。


ボビー・マーレー氏はビッグOを世に送り出す手伝いをしていた

初期のB.A.S.S.トーナメントの大半は、プラスチックワームかスピナーベイトが優勝キールアーでした。そんな中、フレッド・ヤング氏が作り出したシャロークランクベイトのビックOが話題になります。

ビックOは当時、入手困難で25ドルでレンタルされていた程の人気のルアーで手彫り、手描きのオリジナルでユニークなビックOは、保護のために空の卵パックで運ばれていたそうです。

ボビー・マーレー氏はフレッド・ヤング氏とコットン・コーデル氏を繋ぎ、ビッグOを世に送り出すのを手伝いました。

この時期にボビー・マーレー氏はコットン・コーデル・ルアー・カンパニーに勤めていました。彼はフレッド・ヤング氏のプラグに感動し、その一本をアーカンソー州のホットスプリングスにあるコットン・コーデル氏に送りました。

コットン・コーデル氏は、この発明者を見つけ出し、全米で注目を集めていたそのプラグの大量生産に関する契約を熱望していました。

コットン・コーデル氏とフレッド・ヤング氏は意気投合し、コットン・コーデル氏がフレッド・ヤング氏のルアーをプラスチックモデルで製造することになりました。このルアーはたちまち成功し、コーデル氏は最初の年に100万個以上を販売しました。


クラシック勝者から学ぶ! ボビー・マーレー氏の功績と釣り哲学

1989年には全米スポーツフィッシングの殿堂入りを達成し、1994年にはアーカンソー州のアウトドア殿堂入りも果たしました。

ボビー・マーレー氏はB.A.S.S.に所属して66大会に出場し、その中で1勝を追加している。彼はバスマスター・クラシックに9回出場し、4回トップ10に入った。さらに、バスマスター・アングラー・オブ・ザ・イヤーのタイトルを争い、7回ポイントランキングでトップ10に名を連ねた。2001年には、バスフィッシング殿堂の初期メンバーとして殿堂入りを果たしている。

ボビー・マーレー氏はB.A.S.S.トーナメントで75,384.87ドルを稼ぎましたが、そのほとんど半分はクラッシックでの勝利からで、1978年には優勝賞金が25,000ドルに増額されました。彼のキャリア総収入は、現在のエリートシリーズの優勝賞金100,000ドルよりも少ないです。

ボビー・マーレー氏は、技術の進歩は素晴らしいが、水上で過ごす時間に勝るものはないと述べています。「土の中から掘り出したんだ。YouTubeもなかった。バスマスター・マガジンもなかった。デプスファインダーもなかった。」

ボビー・マーレー氏によると、ガーミン社のライブスコープは革新的である。彼はこの機器を6時間使用し、棚にいる魚をリアルタイムで観察できたことに感動したと述べています。ただし、彼は水上で過ごす時間の重要性を再度強調しています。

「自然の兆しを読み取り、魚の群れを見つける方法を学ぶ。一匹だけでなく、群れを釣る技術を身につけるのだ。」「雨も風も雲も、すべてを経験する必要がある。上手なアングラーになるためには、もっと頻繁に釣りに出かけることが大切だ。」


おわりに

最後までお読みいただきありがとうございます。今回は第1回バスマスタークラシックで優勝したボビー・マーレー氏を紹介しました。

ボビー・マーレー氏は日本ではあまり知られていないかもしれませんが、それには、理由があり、1981年になって、初めてアメリカのトーナメントに関する記事が日本に入ってくるようになったからです。

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では!! よい釣りを(^O^)/


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