今回はボーマーベイトカンパニーの歴史を紹介したいと思います。ボーマーベイトカンパニーの創業者はクラレンス・タービー氏とアイク・ウォーカー氏です。
ボーマーベイトカンパニーは、ディープクランクベイトの先駆けとなるボーマーベイトを製造しました。これは、第二次世界大戦中にバス釣りを熱心に追求していたアメリカ人がいたためです。ディープクランクの開発は、バスフィッシングに顕著な影響を与えました。
ボーマーベイトカンパニーには、もう一人の重要なルアーデザイナー、チャーリーメドレー氏がいます。彼はモデルAの原型を作成し、その後ファットAを開発しました。
では!! ボーマーベイトカンパニーの歴史とボーマーベイトの誕生秘話!の始まりです(^O^)/
1940年代にディープクランクを作り出し!ボーマー社は誕生します!
1942年頃、第二次大戦中にラルフ・ワム、クラレンス・タービーとアイク・ウォーカーは、地元のテキサス湖やオクラホマ州レイク・マレーで釣りをしていた。 彼らのお気に入りのルアーはクリーク・チャブ・クローダッドでしたが、このルアーには改良の余地があると彼らは考えていました。
三人の考えによると、クローダッドのアクションは不安定で、地元の湖では十分に深く潜らなかったとされています。そのため、ラインアイやリップのデザインを改良しました。
この広告は、ラルフ・ワム、アイク・ウォーカー、クラレンス・タービーが1943年後半にオリジナル・ボーマーベイトの製造を開始してからおよそ5年半後に掲載されたモノ。
草創期のボーマーベイトカンパニーはアイク・ウォーカーがOKタイヤ・アンド・ラバー社で使っていた会社の裏手にあったガレージを借りて、夜な夜な新しいルアーの製造に取りかかっていました。初期のボーマーベイトはラルフ・ワムによって設計され、削り出されたそうです。
ルアーの部品を作るのにプリンス・アルバートのタバコ缶から切り出したり、ダイビング・リップは古い調理用のストーブから作りだしたそうです。
ボディに水が染み込まない加工をアイク・ウォーカーが古い教科書を取り出して見事に解決します。液体シーラントを入れた圧力容器を使い圧力がかかった状態でシーラントの浴槽にルアーを入れ、圧力が解放されると、シーラントがルアー本体に浸透し、水が入らないように密閉させます。この技法は1950年では秘密にされていたそうです。
ボディの成型には ホワイトシダーを旋盤で削り、フックハンガーにはシューズアイが使われた。 完成品のリップは、水中での反射を避けるためにすべて黒く塗られた(黒以外の色が加えられたのは1946年以降) こうして最初のプロトタイプ、初期の「ボーマーベイト」が完成します。
1947年6月8日付の『ウィチタ・フォールズ・タイムズ』紙の記事によると、会社を1943年にゲインズビルに移転したそうです。 この時点では、従業員は20人アリゾナ州だけでなく南西部全州にルアーを出荷していたそうです。 当時、彼らは1日に150個のルアーを製造していましたが、年間30万個に拡張することを検討していました。
1944年には釣り仲間たちが、このベイトをリクエストし始めやがて地元の商店でも販売するようになった。 1945年9月24日には、ボーマーベイトの特許を申請しました。
1946年、戦争が終わり、ボーマー社は法人化されます。 ドイツ人機械工を雇い、作業を自動化、標準化し、会社初の自動旋盤でルアーを製造した。 また、外注先を設けアート・ワイヤー・スタンピング社(Art Wire Stamping Co)にライン・タイとリップの製造を任せます。
1947年のニュース記事によると、ボーマー・ベイト・カンパニーは「すでに1日に1000個のボーマーベイトを製造していました。当時、全国的な宣伝をしていなかったルアーメーカーとしては、かなりの生産量だったので、更に製造工程をスピードアップするために新しい機械が発明されます。
1970年以降、木製ボンバーの生産は中止され、1971年にはプラスチックに移行し木製ボンバーは過去のものとなりました。しかし、プラスチック化したボーマーベイトは水漏れが発生してしまい2年間製造が中止し、会社に大きなダメージを与えてしまう時期もありました。
1951年11月に会社はゲインズビルの326 Lindsay St.に移転し、1988年に売却されるまでそこに留まった。
ボーマーベイトカンパニーの創業者、クラレンス・タービー氏の歴史
クラレンス・タービー氏は1934年にテキサス大学を卒業し、経済学を専攻、政府学と経営学を副専攻として学士号を取得しました。
彼はゲインズビルに戻り、父親の楽器ビジネスを釣り具、家電製品、そして最終的にはブタンガスシステムの設置まで拡張していった。
電化製品とブタンガス事業は大きな成功を達成し、その後1945年にスポーツ用品事業と共に売却され、ボーマー・ベイト・カンパニーの資金源になりました。
クラレンス・タービー氏はプラドコへの売却後も1年間フルタイムで勤務し、夜間はボーマー社の事業に従事しながら、事業の移行を支援しました。
ボーマーベイトカンパニーの創業者、アイク・ウォーカー氏の歴史
ボーマーベイトカンパニーの共同創業者、アイク・ウォーカー氏はテキサス州ラボック郊外の小さな農村で育ちました。1925年に創立したばかりのテキサス工科大学に入学し、当初は土木技師を目指していましたが、2週間後に農業学に転向し、1930年に同大学で園芸学の学位を取得しました。
1938年にアイク・ウォーカー氏はゲインズビルへ移住し、タイヤ修理の事業を始めました。このビジネスは1942年まで継続されました。
第二次世界大戦の影響で資材が不足し、彼は資材を確保するために苦労しました。1943年には、町の大きなタイヤ修理会社であるウェスタン・オート社に勤め始め、自宅でプラグ製作を開始するのでした。
ボーマーベイトカンパニーを支えたデザイナー、チャーリー・メドレイ氏
モデルAの原型を作り後にファットAを作り出したのが、チャーリー・メドレイ氏です。チャーリー・メドレイ氏は1972年、24歳でボーマーに入社します。
新入社員の頃は雑用係としてペンキ缶をシンナーで洗うこともありましたが、ルアー作りに情熱を持つチャーリー・メドレイ氏は、その夢を追求するために彼は昼休みやほかの空き時間を利用して、ルアーのデザインを考え製作します。
当時、ルアーデザインを担当していたのはアイク・ウォーカー氏で、彼はデザインのノウハウを教えることはありませんでした。彼は、モノ作りは教わるものではなく、自分の目で学ぶべきだという考えを持っており、日本の職人のように、仕事を見て盗む姿勢を貫いていた人物でした。
チャーリー・メドレイ氏は1988年にボーマー社がプラドコに吸収された際、経理部門の方と共にプラドコへ移籍したとヒロ内藤さんから聞きました。その後も、ファットフリーシャッドの製作プロジェクトに参加するなど、活躍を続けます。
おわりに
最後までお読みいただきありがとうございます。ボーマーベイトカンパニーの歴史の一端ですが、ご紹介させて貰いました。ボク自身のこの記事を書くにあたり、ボーマーベイトカンパニーがルアー製作に様々なチャレンジを試みていた事が学べました。
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ボーマーベイトカンパニーの歴史とボーマーベイトの誕生秘話!の記事があなたのバスフィッシングライフのサポートになれば幸いです。
では!! よい釣りを(^O^)/
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