プラドコとレーベルの歴史! バス釣り界の偉人ジョージ ペリン!

バスフィッシングの偉人達

REBEL社の創業者であるジョージ ペリン氏は生年月日は不明でアーカンサス州にプラドコ社を創業するところからしか人物としての情報が掴めない超有名な人なのに謎めいている部分がある人です。

日本ではREBEL社をレーベルと伸ばして発音しますが正しくはレベルと発音するのが正しいそうで、なんで伸ばすようになったのかは諸説あるようです。

ボクが聞いた説では、西山徹氏が日本にREBEL社を伝える時にレーベルと伸ばして発音することで、そのまま日本でこの呼び方が釣り人の中で定着したという説です。

今回のルアー界の偉人はRebel Luresを創業したジョージ ペリン氏です(^O^)/


1950年代にプラスチックの製品の製造会社PRADOを創業!

1950年代にジョージ ペリン氏はアーカンサス州フォートスミスにプラドコ社を創業します。冷蔵庫や家具等に使われるプラスチックの部品を製造する会社がプラドコ社です。

PRADOの正式名称はプラスチック・リサーチ・アンド・ディベローピング・コーポレーションの頭文字を取ってPRADCOといいます。

おもにプラスチック製の部品を作る会社で自社の製品を作る会社ではなかったので、あまり会社名は知られてはいなかったようです。

プラドコはこの時代の最新素材であるプラスチックの精密金型の製造から射出成型機を使った成型加工も行っていたと考えられます。

最近ではポップRのP70の復刻したP71を販売しました。3次元スキャンを使ってP70をスキャンして当時と同じ鉛のウェイトを入れて完全な同じ形で作りあげた事からもプラドコ社の技術力の凄さを知ることができます。


Rebel Luresを創業 最初に作ったルアーはレーベルミノーF10!

1962年にプラドコ社内に釣具を扱う別会社を設立します。それがRebel Luresです。Rebel Luresを創業した理由はジョージ・ペリンが友人とバス釣りを楽しんでいた時に友人がラパラのミノーは高いし、なかなか手に入らないから、困ると話したそうです。

ジョージ・ペリン氏は当時のラパラのミノーを見た時に製品のバラツキのあるラパラに高額のお金を払って購入する人たちに疑問を持っていたようです。

それでは、プラスチック製のミノーを作ろうとジョージ ペリン氏は考えます。プラスチック成型の技術を使って多くの人が気軽に安く買えるルアーを作る事を考えます。REBEL社の第一号ルアーはミノーに決定します。

REBEL社の社名は娘が通っていた高校で話題になっていた学生サッカーチームの名前から取ったそうです。意味は反抗・革命で名前の響きも良いので会社名に取り入れたそうです。

アーカンソー州のウォシタ湖でプロトタイプのレーベルミノーを実験しているとバスがミノーに近寄って来て寸前で食わず引き返すことが、度々あり、バイトに繋げる為にどうすればいいか考え出したのが、クロスハッチです。

クロス・ハッチの鱗模様に1・2・3の法則で輝くような機能を3年の歳月をかけて開発しレーベルミノーF10を完成させます。

1・2・3の法則は、クロス・ハッチに反射する光のリズムを不規則にすることで、リアクション・バイトを得る機能です。レーベルミノーF10の完成でレーベル社のミノーが安くて釣れると評判になり、人気ルアーになっていきます。

また、REBEL社は当時、この時代にレーベルミノーを開発するにあたり社内でルアーのスイムテストをする為の水槽を作ります。形は長方形ではなく、円形で水槽の縁をルアーが引っ張られて泳ぐ仕組みになっていたそうです。


Rebel Luresの技術と凄い安定供給できる生産性

その他にもRebel Luresでは本物のザリガニから型をとって作ったクローフィッシュシリーズや現代のポッパーの原型とも言えるルアー、ポップRを開発しています。

また、ルアーのカラーリングの工程でも革命的な製法を使っています。レーベル社のエンジニアである、ウィリアム・チャーリー氏が開発した技術で曲面に印刷する事ができるパッド・プリントという、本物そっくりな、プリント技術が施されています。

70年代、アメリカンのルアーメーカーでは本物のベイトフィッシュに似せた、リアルペイントが流行っていた時代で、この技術はバグリー社にも提供されています。

また、REBEL社は、当時、金属製のタックルボックスが多かった時代にプラスチック製の両面開きのタックルボックスを最初に作ったメーカーでもあります。更にREBEL社のタックルボックスはワームを入れても溶ける事の無い素材を既に使っていたそうです。

1980年代には他社のタックルボックスも技術が向上するようになり、REBEL社はタックルボックスの製造を止める事になります。

REBEL社の古い従業員であるダニー・ストーナーは言います。REBEL社は1日に 10,000 個のルアーを作る生産体制を誇っています。また、私たちは1980年代に、米国のすべての男性、女性、子供達に十分なREBELルアーを提供してきたと。


「ボートまで作ってしまう」ルアー以外の分野にも参入していたRebel Lures

REBEL社は1970年にはルアーの分野以外にもボートの開発製造にも取り組んで行きます。1971年に行われた最初のバスマスター・クラシックの公式艇もREBEL社が開発したボート、ファストバックが使われるのですが、1971年はレンジャーボートの工場が火災で全焼した事も影響しているようです。

クラシックではボートの上げ下ろしをジョージ ペレン氏も手伝ったそうです。この年のクラシックでボビーマレーがクラシックで優勝しています。

また、エレクトリック・モーターの開発もREBEL社が始めます。今のエレクトリック・モーターの操船方法とは違い進む方向のボタンを足で踏んで操船する仕組みだったようです。

また、ルアーがカバーに接触しても回転して根掛りしない機能を組み込んだ人工のカバー(障害物)、フィッシュ・ツリーを開発しカバーの育ちにくい水域に寄贈されたそうです。

REBEL社はその後、EBSCO(エルトン・B・ステーフン・コーポレーション)に売却されエビスコ牡はプラドコ社を残し、これを母体に名実ともに世界一のルアーメーカーを目指し続けてます。


ジョージペレンはフォトプリントの技術をなぜバグリーに教えたのか?

2023年6月23日にヒロ内藤さんにお会いする機会があり、REBEL社のフォトプリントやバックプリントと言われる技術をなぜ?バグリー社に伝えたのか、その辺りのお話を伺いました。

先ずはフォトプリントとはどの様な技術か説明しますとレーベルクローフィッシュなどに使われている技術で塗装でははく写真をルアーに転写する技術です。塗装とは違い本物のザリガニや魚の模様を忠実にルアーに写す事が出来るのでリアルな仕上がりになります。

70年代にアメリカでもリアルイミテートしたルアーが流行りますが、その技術の最先端を走っていたのがREBEL社でした。

こんな、素晴らしい技術を同業他社のバグリー社に教えると知った社員たちは当然ですが、反対したそうです。社員の反対を押し切ってまでバグリー社に技術を伝えたのはジョージペレン氏がバグリー社に憧れもあり、お近づきになりたかったのではと仰っていました。

バグリー社は1954年にポークリンド会社、Bills13をバグリー氏が購入してルアーメーカーを始めているので、REBEL社からしたら歴史のあるルアーメーカーなのです。

フォトプリントの技術を教えると言っても技術の部分はもとよりどの様な機械を使うのかどの様にして作業するのかまで、全てを惜しみなくバグリー社に伝えたそうです。

この事によりリアルイミテートが流行ってた時代にバクリー社もその波に乗る事ができたようです。


おわりに

PRADCO社のアメリカ国内の販売数が一番多いブランドは以外にもヘドンではなくREBEL社のルアーだそうです。また、REBEL社はルアーフィッシングを始める子供たちの為にもクリックホッパーやハンブルバグ、ヘルグラマイトなどのウルトラライトシリーズも作りその後にマイクロシリーズを作ります。

これらのシリーズは初心者や子供でもブルーギルやバスが釣れるために小型のプラグでマイクロシリーズに至ってはシングルフックのバーブレスになっているので怪我を最小限に抑える工夫がされています。REBEL社はバスアングラーのすそ野を広げる活動をしているメーカーです。

今回はPRADCO社の創業者でありREBEL社の生みの親であるジョージ・ペレン氏を紹介しました。今回の記事があなたのバスフィッシングライフのサポートになれば幸いです。


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