「ザ・フィッシングと言えば!」西山 徹フィッシングキャスター!

バスフィッシングの偉人達

西山 徹フィッシングキャスターと聞いて分かる人はそれなりの年齢か、若しくは、かなりのバス釣り好きな人だと思われます。

西山 徹さんは、1983年に始まり、現在も続くダイワがスポンサーの釣り番組、ザ・フィッシングのフィッシングキャスターを努められ、あらゆる魚種の釣りを紹介されていました。

釣りの説明も分かりやすく環境や魚に対しての付き合い方を画面から吸収させてもらいました。ライターとしても活躍されフライフィッシングやバスフィッシングの著書を執筆します。

当時はバスフィッシングやトラウトフィッシングと細分化されておらず、ルアーフィッシングというカテゴリーでした。西山さんの本、SPORTS CHART 5 FISHINGやルアーフライファンに贈る本を読んで様々な魚がルアー対象魚だと学ぶ事ができました。

では!!「ザ・フィッシングと言えば!」西山 徹フィッシングキャスター!の始まりです(^O^)/


「ダイワ精工からフィッシングライターへ」 西山 徹さんの経歴!

西山 徹さんは高知県出身で、釣り好きの父親の影響を受け、物心ついた時から釣りを始められます。小学生で既に鮎の友釣りもされ、渓流のアマゴ釣りも経験し、海ではボラやシロギスなどを釣る小学生でした。

中学時代はサーフの投げ釣りと渓流釣りやヘラ釣り、驚く事に既にフライフィッシングをされていたそうです。ルアーとの出会いは高校生の時、当時は磯釣りや投げ釣りでヒラメやスズキをドジョウを餌釣りで狙っていたそうです。

当時は冬の時期の釣りで、餌付けの際に冷たい水に手をつけて行う事が辛く何かいい方法が無いかと考えていたところに、当時は希少なミノータイプのルアーを手に入れて釣りを始めて見たところ、釣果を得ます。この体験からドジョウの形をしたルアーをハンドメイドを作る事もされていたようです。

大学は日本大学農獣医学部で魚類学を専攻され、卒業後にはダイワ精工に入社しますが、大好きな釣りが満足に出来ないので、フリーのフィッシングライターになります。当時は大企業を退職する事を親に反対されていたそうで、当時、売れていたライターの方を両親に会わせて説得したそうです。


日本に最初にプラスチックワームの釣りを紹介したのが、西山 徹さん

1974年代に大橋巨泉さんが司会の11PMという深夜番組で、大人の趣味としてドライブやフィッシングそしてゴルフ等を紹介していました。金曜日に海外の釣りを紹介する11ワールドフィッシングで、アメリカの当時の最新のソフトプラスチックのワームの釣りを西山 徹さんが紹介されます。

当時のワームを使っての釣りは、本当に釣れましたからワームは餌つりと変わらない、プラグで釣るのがバスフィッシングなんだと、アングラーの間で議論された時代です。

ご本人もワームによるバスがフックを飲み込む事や根掛かりで与える環境へのダメージを考えるとプラスティック・ワームの釣りを紹介した事に悩まれていたようです。


バスは冬眠する? 日本で初めてウィンターバッシングを紹介したのは西山 徹さん

1970年代の後半に月刊つり人で冬のバスフィッシングを紹介、まだ日本ではバスの生態は正しく理解されていませんでした。

1970年代の後半、冬季のバスについてアメリカでは「テキサス州までは釣れるが、それより北の地域では釣れない」、日本では「冬眠状態になる」とされていたことに疑問を抱き、

当時は冬のブラックバスについてアメリカでは「テキサス州までは釣れるが、それより北の地域では釣れない」と考えられ、日本ではバスは冬眠するものと考えられていました。その考えに疑問を持った、西山 徹さんは3年間、津久井湖、山中湖、河口湖で冬のバス釣りを行い釣果を得て確信します。

この記事により賛否両論出るのですが、最終的に氷結した湖の穴つりでもバスを釣る事を立証されウインターバスフィッシングを確立されます。

現在、北米でもアイス、フィッシングをされてブルーギルやバス、パーチを釣って楽しんでいますね。


ヒロ内藤さんが兄貴と慕う西山徹さんとの出会いをヒロ内藤さんに聞いてみた

2023年のイベントでヒロ内藤さんから西山 徹さんの出会いについて、お話を伺う事ができました。ヒロ内藤さんは当時アメリカの大学で学ばれていたのですが、出身地の群馬県館林市に所属していたフィッシング倶楽部の会長から西山徹さんのアメリカでの取材のサポートのお話を受けます。

余談ですが、この館林フィッシングクラブの会長がとても面白い方で、ヒロ内藤さんが山と渓谷社の雑誌アウトドアで執筆される事になる出来事の中心人物で、ヒロ内藤さんがこの業界に入る切っ掛けを作られた方です。

当時のヒロ内藤さんは大学生だったので、大学が休みの期間であれば、アメリカでの取材のサポートをする事で話が進み、この事が縁で西山 徹さんと出会う事になります。

この取材旅行の中でバグリーベイトカンパニーに行った際にバグリー社長にヒロ内藤さんは気に入られてバグリーに入社するのですが、入社に対して西山徹さんは自身の経験を通して釣り具業界に入ると釣りに行けなくなるけど大丈夫と話されたそうです。

色々と相談に乗ってもらいながら、ヒロ内藤さんは釣り具業界に入社しても大好きな釣りが出来る様に仕事に取り組んでいくと話されたそうです。


B.A.S.S.の日本人初のプレスアングラーは西山徹さんがなるはずだった!

1983年、BASS Master Classicに日本で最初のプレスアングラーとしてヒロ内藤さんが参加します。ヒロ内藤さんは、その後17回にわたりB.A.S.S.のプレスアングラーとしてバスプロのボートに乗船して雑誌を通して日本に最新のバスフィッシングの情報を届けてくれました。

実は、西山 徹さんが日本人として初めて報道として取材したB.A.S.S.の記事が素晴らしいという事で、プレスアングラーへの招待があったのですが、日本でザ・フィッシングのテレビ番組がスタートするので準備があった為、辞退されます。

そして、西山 徹さんの代わりにヒロ内藤さんが手を上げてプレスアングラーとしてクラシックに参加する事になります。最初の5年間は出版社経由で西山 徹さんの元にプレスアングラーの招待状が届いたそうですが、後に直接、ヒロ内藤さんの元に招待状が来るようになります。

このプレスアングラーは全米のフィッシングライターの中から100人が選ばれるそうで、とても名誉のあるお仕事です。


奈良県、池原ダムにフロリダバスを入れる計画を立てたのは西山徹さん

奈良県の池原ダムにフロリダバスを移植するドリームプロジェクトを西山徹さんが発案しヒロ内藤さんに相談されます。フロリダ種の稚魚の確保やアメリカから日本への輸送費、そして日本に着いてから池原ダムへの輸送方法などクリアしないといけない問題が多くあったそうです。

ヒロ内藤さんはフロリダバスの稚魚の確保の為、バグリー社長に相談します。バグリー社長は内藤さんを見つめてこう答えます。「この話はまだ、誰にもしていないのか?」ヒロ内藤さんは断られると思いながら「まだ、誰にも話していません」と返事したそうです。

するとバグリー社長は「フロリダバスの稚魚の用意と空港までの資金を全額出す」と言われたそうです。バグリー社長は日本が大好きな方だそうで、日本のアングラーに協力したと考えられたようです。

西山 徹さんはアメリカから日本への輸送費の確保に方々手を尽くします。しかし、日本についてから池原ダムへの輸送方法に悩みますが、その話を聞いたアングラー達がボランティアで稚魚を池原ダムへ運ぶ事になったのです。こうして、々な人達の尽力により、池原ダムにフロリダバスの稚魚が放流されます。

1988年に、池原ダムに移植後、フロリダバスは成長し日本でも60cmオーバーのバスを釣るという夢のあるフィールドに成長します。西山徹さんは池原ダムで釣りをされたのですが、残念ながらいい釣果は得られなかったそうです。


おわりに

日本のバス釣り界を牽引された西山 徹さんの記事を最後までお読みいただきありがとうございました。西山徹さんは2001年3月2日、食道癌がもとで享年52歳で亡くなられます。

ボクも2024年3月、現在、同じ52歳の年齢なのですが、西山徹さんの記事を書きながら、ただ、情熱を持って走り続けることが、人生にとって大切な事だと感じました。

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「ザ・フィッシングと言えば!」西山 徹フィッシングキャスター!の記事があなたのバスフィッシングライフのサポートになれば幸いです。

では!! よい釣りを(^O^)/


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