バスフィッシング界には数多くの名選手がいますが、その中でも特に輝きを放つのがラリーニクソンです。ラリーニクソンは親しみを込めて「将軍」とも呼ばれ、トーナメント バス フィッシング史上最も尊敬されるアングラーの 1 人です。
彼のキャリアは数十年にわたり、数々の大会で優勝を果たし、多くのアングラーに影響を与えてきました。ラリーニクソンの功績は数え切れないほどあります。彼は数多くのトーナメントで優勝し、その中でも特に注目すべきは、1983年にバスマスタークラシックで優勝したことです。
また、ラリーニクソンの偉業はトーナメントの賞金額が100万ドルを超えた最初のアングラーという偉業を成し遂げた事です。
ラリーニクソンは70歳を超えてもバスプロとして活躍してきましたが、2024年に引退を表明します。彼の長年の経験と知識は、今後もバスフィッシング界に大きな影響を与え続けることでしょう。
この記事では、ラリーニクソンの経歴、功績、そして彼がバスフィッシング界に与えた影響について詳しく紹介します。
では!! 「ラリーニクソン!」バスフィッシング界の将軍と呼ばれた男!の始まりです(^O^)/
ラリーニクソンは憧れのベイトリールをトーナメントで手に入れた!
ラリーニクソンは、1950年9月3日にアーカンソー州で生まれました。彼のバスフィッシングへの情熱は幼少期から始まり、若い頃から地元の釣り大会に参加し賞品だった憧れのベイトキャスティングリールを釣り大会のビックフィッシュ賞を自力で掴んだエピソードもあります。
バス釣りを楽しむようになった多くの皆さんと同じように、ラリーニクソンも5歳ぐらいの頃から、バプテスト派の牧師の父親に連れられバス釣りを始めます。父親は、バス釣りが大好きでしたが、主に食料を得るために釣りをしていたそうです。また、息子に本当に釣りが上手になるには、魚の居場所の見つけ方を知っていることと、忍耐力が必要だということを教えたそうです。
1964年にテキサスからアーカンサスに移住し高校時代は成績もよく水泳と野球部に所属していたそうです。高校時代の同級生に父親と兄貴がバス釣りのガイドをしている友達と出会い、この頃から週末はバスフィッシングに足繁く通うようになります。
ラリーニクソンは、父親から釣りや人生について多くのことを教わったが、トーナメンターになるような競争心の強い人間ではなかったそうです。しかし、1970年代にはトーナメントプロとしてのキャリアをスタートさせ、すぐにその才能を発揮させるのでした。
BassmasterClassicとAngler-of-Yearの両方のタイトルを獲得
ラリーニクソンは、釣りが上手かったこともあり、マリーナの経営者にガイド業をやってみないかと誘われます。しかし、両親が大学の進学を条件にしたので農業大学へ進みます。
ラリーニクソンは、短大で2、3年を過ごしながら1972年、釣りの知識を広げる必要性を感じルイジアナ州とテキサス州の境にあるトレド・ベンド湖に移り住み夏休み期間と週末にガイド業をしながら大学に通い釣りの技術を磨きました。
大学卒業後は父が購入した古いレンジャー・ボートを使って、ガイド・トリップを始めます。当時は、腕のいいガイドはみんな、ブルショールズからグリアーズ・フェリー・レイク、トレド・ベンド、サム・レイバーンへと移り住んだそうです。
ラリーニクソンがトミー・マーティンと知り合ったのは、ガイドとして働いていた頃でマーティン、ジョン・トーリアン、ハロルド・アレンとともに、彼らは「ヘンフィル・ギャング」として知られるようになり、おそらくBASSトーナメントに出場したアングラーの中で最も恐れられたグループのひとつとなりました。
そして1977年、自分の腕前は十分に競技に通用すると感じた彼は、フロリダのセントジョンズ・リバーで開催された最初のBASSインビテーションに出場し、そのトーナメントで16位に入賞し900ドルを獲得しました。トーナメント界で最も成功したキャリアのひとつをスタートさせる事に成功しました。
B.A.S.S.サーキットに参加して以来、彼はB.A.S.S.の 「Angler-of-Year 」のタイトルを2度獲得し、14のトーナメントで優勝、23回のバスマスター・クラシックの出場権を獲得し、1983年、オハイオ・リバー戦でのBassmasterClassicでは優勝を果たします。
ラリーニクソンは、BassmasterClassicとAngler-of-Yearの両方のタイトルを獲得した11人のアングラーのうちの1人でもあります。
しかし、成功を収めても、すべてがうまくいった訳ではなかったようです。優勝賞金の合計は4000ドルにも満たなかったこともあり、もしクラシックで2位になり、1万ドルの賞金を得ていなかったら、ラリーニクソンはトーナメンターとしての仕事を追求することはできなかったようです。
メガバックスを3回連覇し賞金100万ドルを超えた最初のアングラーになる!
ラリーニクソンは、翌年にその勢いに乗って、7年連続で賞金を手にすることになるのですが、実はリック・クランがグラストロンボート社の人たちを紹介してくれた支援があった事でトーナメントを続けられたそうです。ラリーニクソンは、「リックやグラストロンの人たちがいなかったら、おそらくもう1年も続けることはできなかっただろう」と語っています。
バスマスター・メガバックスは、エリート・シリーズやFLWツアーの高額賞金イベントの先駆けになったイベントでした。それまでは、メジャーな国内イベントの優勝者は、賞金25,000ドルから30,000ドルが期待できました。しかし、メガバックスは、当時としては最大級の賞金額で、時には100,000ドルを超えることもありました。
そんな、メガバックスにラリーニクソンは、4回も優勝しており、信じられないことに、そのうちの3回を連覇しているのです。内訳は1988年、フロリダ州リーズバーグのハリス・チェーン・オブ・レイクスでの初優勝し、賞金10万9000ドルを獲得します。2度目の優勝は1990年2月、再びハリス・チェイン・オブ・レイクスで行われ、この時は賞金108,788ドルを獲得します。
3度目のメガバックスは1990年11月、レイクガンターズビルで開催し、賞金は76,304ドル獲得し1991年、テネシー州チャタヌーガのレイク・チカマウガで開催されたイベントで、彼は88,572ドルを稼ぎ、4度目のメガバックス・チャンピオンに輝きます。
これらすべての偉業を達成しながらも、彼の残りの人生について回るタイトルといえば、バスアングラーズ・スポーツマン・ソサエティのトーナメント・トレイルで100万ドルを超えた最初のアングラーという偉業です。
1992年10月17日、アラバマ州のガンタースビル湖で開催されたメガバックスイベントで、彼はその偉業を達成します。3万ドルの4位入賞で、彼のBASSでの賞金総額は$1,003,486となっりました。他にも何人かのアングラーが彼の足跡をたどっているが、彼が最初のトーナメンターです。
2024年のシーズン限りでプロトーナメンターを引退する事を表明
ラリーニクソンと妻のエイミーと結婚し、3人の成人した子供がいます。ニクソンは、エイミーの理解とサポートがあったからこそ、今のような成功を収めることができたのだと感謝しています。「エイミーは私のキャリアを通して、肉体的にも精神的にも常に私をサポートしてくれた」とニクソンは妻について語っています。
ラリーニクソンの思い出の一つに、1983年のバスマスター・クラシックの優勝がある。クラシック優勝は、どんなプロアングラーにとっても忘れられない思い出だろうが、ラリーニクソンにとっては、エイミー・ラリーニクソンが一緒だったという事が特別な意味がありました。
「私たちは本当に若く、当時は何も持っていなかった」「クラッシックで優勝したとき、エイミーが一緒にいてくれたことは本当に特別だった」と語っています。
バスフィッシングにおけるあらゆる功績と共に、彼は3年間にわたり自身のテレビ番組の司会を務め、アーカンソー・アウトドア殿堂入り、フレッシュウォーターフィッシングの殿堂入りと栄誉に輝いています。
ラリーニクソンと言えば、1989年の春の琵琶湖でのレーベルスプービルミノーを使った釣りを見せて話題に成りました。
ラリーニクソンは70歳を超えてレジェンド枠を使ってエリートシリーズに参戦されていましたが、74歳になる2024年のシーズン限りでエリートを引退するとの発表されました。
おわりに
70歳を超えた現在でも、ラリーニクソンは現役のバスプロとして活躍しています。彼の情熱と技術は衰えることなく、多くのファンから支持されています3。彼の長年の経験と知識は、今後もバスフィッシング界に大きな影響を与え続けることでしょう。
ラリーニクソンは、バスフィッシング界の生ける伝説です。彼の功績と影響は計り知れず、多くのアングラーにとってのロールモデルとなっています。彼のキャリアと技術を学ぶことで、私たちもより良いアングラーになることができるでしょう。
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では!! よい釣りを(^O^)/
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