マスターキャスター!スタン・ファガーストロムってどんな人?

バスフィッシングの偉人達

バス釣りとキャスティングの世界において、スタン・ファガーストロム氏は特別な存在です。彼は60年以上にわたりバスフィッシングに関わり、その技術と知識を世界中に広めた人物です。ファガーストロム氏は釣りに対する情熱を生涯持ち続けました。彼のキャスティングの技術は「マスターキャスター」として国際的に知られ、1952年以降、アウトドアショーで披露されてきました。

スタン氏は、釣りに関する多くの記事やコラムを書き、Bassmaster、Bassin、Field & Stream、Outdoor Life、Sports Afieldなど、権威ある出版物に寄稿してきました。また、彼はバスフィッシングの殿堂、ナショナルフレッシュウォーターフィッシング殿堂にも名を連ねています。

スタン氏のキャスティングは、国内外のさまざまなテレビ番組で取り上げられてきた。東京の大規模なフィッシングショーに参加した際には、村田基氏ともコラボし、信子妃殿下のためにプライベート・キャスティングのデモンストレーションも行いました。

バスフィッシングとキャスティングに情熱を注ぐすべての人々にとって、スタン・ファガーストロム氏は、その道の先駆者であり、尊敬すべき存在です。

では!! マスターキャスター!スタン・ファガーストロムってどんな人?の始まりです(^O^)/


スタン・ファガーストロム氏は世界恐慌では家も失うほどの大変な少年時代を生きて来た!

スタン・ファガーストロム氏は1924年にノースダコタ州の農村に生まれます。子供の頃は父親に連れられて釣りを体験して以来、釣りが最高の楽しみになります。しかし、家計が苦しかった事もあり、まともな釣り道具は持っていませんでした。

スタン・ファガーストロム氏

釣り竿は柳の木を切って作った延べ竿に、ラインは近くのお店でもらった荷物を縛る紐を利用します。鈎は安全ピンを曲げて作り、餌は捕まえたバッタなどを使って釣りをしていたそうです。

1930年に世界大恐慌が起こります。貧しいファガーストロム家の生活に追い打ちをかけ、家も財産も失い親戚を頼ってアメリカ北西部のワシントン州に移り住みます。

それまで住んで居た農村地区では、小中学校12名しかいなかった環境から、新しいワシントンの学校では1学年で100名以上の生徒がいたそうなので、すぐに釣り仲間が出来たそうです。当時の釣りの対象魚はサーモンやスチールヘッドに人気があったそうですが、スタン氏は雑誌で見たブラックバスを釣りたいと思い、近くの湖に釣りに出掛けます。

ルアーを買う事はできなかったので、母親が朝食に使うために買ってきたベーコンの皮と脂身を使って雑誌で見たポークリンドを自作して2ポンドのバスを釣り上げます。この初バス体験から釣りに行けない日は、家の前でキャストの練習をする程にバスフィッシングに入れ込むようになります。

スタン氏は高校に入学すると釣りの楽しさを伝えたくて、学校新聞の製作に参加します。なんと!この学校新聞を見た地元の新聞社が、スタン氏の記事を新聞のスポーツ欄の片隅に掲載するようになります。この出来事が切っ掛けで、フィッシングジャーナリストの世界に入っていきます。


第二次世界大戦がはじまり歩兵ライフル中隊に約2年間従軍する

第二次世界大戦がはじまり、スタン・ファガーストロム氏は真珠湾攻撃からちょうど1年後の1942年12月7日にアメリカ陸軍に入隊し、南太平洋のジャングルで歩兵ライフル中隊に約2年間従軍しフィッシングジャーナリストの職から離れます。

ワシントン州のフォートルイスで現役に就き、カリフォルニア州キャンプ・ロバーツで歩兵の基礎訓練を受けます。基礎訓練の後は、カリフォルニア州フォートオードの手榴弾射撃場でインストラクターを務めました。1944年にスタン氏は南太平洋に派遣され、最終的にはニューギニア、当時のオランダ領東インド(現在のインドネシア)、マピア諸島、フィリピンのジャングルで任務に就きました。彼の海外での戦闘任務はすべて、第31歩兵師団の第167歩兵連隊のライフル中隊に所属していました。

1943年 スタン・ファガーストロム氏

戦争が終わったとき、彼の連隊はミンダナオ島で戦っていました。後に、彼らの第31師団が日本侵攻計画に関与していたことを知ります。師団は、他の3つの軍師団と統合され、1946年3月1日頃、新たに編成された第8軍は、ダウンフォール作戦と呼ばれるものの一部として、東京湾またはその近くに上陸することになっていたそうです。

スタン氏、最初の原子爆弾が投下されたという知らせが届く少し前に、ミンダナオ島の野戦病院に送られました。スタン氏たちは、あまりにも多くの日本兵が、国が降伏するかもしれない状況の中でも諦めるのではなく、死ぬか自殺するのを見てきたそうです。日本が負けを認めた聞いたとき、スタン氏は驚いたそうです。

上記の新聞記事によると、戦時中にスタン・ファガーストロム氏が戦地で拾った日本軍旗を大切に保管し、フィッシングショーに招かれて来日の際に52年ぶりに遺族に返還された事が載っている。


第1回バスマスターズ・クラシックでプレスアングラーに選ばれる

太平洋から戻った後、フォートルイス近くのマディガン総合病院に送られました。長期の療養期間を経て、フォートルイスで除隊することになります。

戦争が終わり帰国後はワシントン大学でジャーナリズムを学ぶ予定でしたが、新聞社や市の編集者そして出版社も大学に行かずに働けば、仕事を教えると言って貰えたので、職場でスポーツコーナーとフィッシングコーナーを担当しながら仕事に奮闘します。そして、この時期にホーマーサークル氏とも出会いアウトドアライターとしても飛躍していきます。

これらの功績が認められ、レイク・ミードで開催された第1回バスマスターズ・クラシックに太平洋岸北西部から唯一のプレスアングラーとして招待されます。

その後、さまざまな出版物で30回以上のバスマスタークラシックを取材し、クラシックに同行していないときは、クラシック・アウトドア・ショーでキャスティングのデモンストレーションを行っていました。

スタン・ファガーストロム氏はその執筆活動で数々の賞を受賞しています。釣りを題材にした詩のいくつかは、印刷メディアやインターネットで広く発表され、新聞や雑誌の仕事以外にも、釣りに関する本を3冊執筆し、キャスティングに関する2本の解説ビデオに主演しています。

スタン・ファガーストロム氏は釣りについての記事だキけではなく、キャリアの初期には、オレゴン・バス&パンフィッシュ・クラブが毎年開催する 「Biggest Bass Contest 」に参加し彼は出場した5年間すべてで優勝しています。

また、アウトドア・ライター・オブ・アメリカの長年のメンバーであり、ノースウエスト・アウトドア・ライター協会のチャーター・メンバーでもあります。全米フレッシュウォーターフィッシング殿堂入りも果たし、2001年には全米プロフェッショナル・アングラーズ協会から名誉生涯会員賞を授与されています。


スタン・ファガーストロムのキャスティング技術について

キャスティング技術の核心は、彼の独自のリズム感とタイミングの理解にあります。彼は、ルアーを水面に静かに着水させるために、正確な力加減とリリースのタイミングをマスターしています。これにより、彼は魚に警戒心を与えることなく、ルアーを目的の場所に正確に配置することができます。また、彼のキャスティングは、風の強い日でも正確さを保つことができるため、あらゆる状況での釣りに適しています。

信子妃殿下のために行われたプライベート・キャスティング デモンストレーション

スタン・ファガーストロム氏はまた、キャスティングの教育者としても知られています。彼は、初心者から経験豊富なアングラーまで、幅広い層の人々にキャスティングの技術を教えてきました。彼の指導法は、個々の学習者のニーズに合わせてカスタマイズされており、彼の生徒たちは彼の指導のもとで迅速にスキルを向上させることができます。

「タルサから東京まで、半世紀以上にわたって数え切れないほどのアウトドアショーをやってきたが、バスアングラーとして成功したいのに、キャスティングの練習の必要性を認めようとしない人たちにいまだに出会うことが多い。彼らにキャスティングの練習用ウエイトの種類を尋ねると、まず持っていないことがわかるだろう。」

また、ベイトキャスティングリールを使って本格的に練習を始めると、キャスティングのアキュラシーが向上し釣果にも繋がると説明しています。


おわりに

最後までお読みいただきありがとうございます。今回のバス釣り界の偉人はスタン・ファガーストロム氏を紹介しました。スタン・ファガーストロム氏は2019年6月に96歳でお亡くなりになりました。戦争という悲しい出来事で日本と繋がりがあったとは、ボク自身スタン・ファガーストロム氏について調べて初めて知りました。

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マスターキャスター!スタン・ファガーストロムってどんな人?の記事があなたのバスフィッシングライフのサポートになれば幸いです。

では!! よい釣りを(^O^)/

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