バスフィッシングを愛するアングラーのみなさん、こんにちは! 今回の「釣りたいバス釣り日記」は、私たちアングラーにとっての「聖杯」とも言える、ある特別な物語をお届けします。
もし、アメリカの釣りの歴史を語る上で、インディアナ州にある小さな町「ギャレット」の名を外すとしたら、それはバスフィッシングという壮大な物語の、最も劇的で重要な一章を破り捨てるに等しい行為でしょう。なぜなら、100年以上も昔、この静かな町で産声を上げた一つのルアーメーカーが、世界中のアングラーの価値観を塗り替え、ついには80年以上もの間、誰にも破られることのなかった「不滅の世界記録」を打ち立てるという、信じがたい伝説を現実に変えたからです。
その名は、「クリークチャブ・ベイト・カンパニー(CCBC)」。
物語の始まりは、1916年にまで遡ります。それは巨大な工場でも、洗練されたオフィスでもなく、一人の鉄道員が自宅の浴槽で夜な夜な繰り返した、孤独で情熱的な実験から始まりました。手作業で削り出された木片に、命を吹き込むようなガラスの義眼をはめ込み、地元の湖で大物(ランカー)を追い求めた創業期。そこには、現代のハイテクルアーにはない「釣るための執念」と「職人のプライド」が凝縮されていました。
彼らが世に送り出したルアーたちは、単なる道具の域を超え、1932年にジョージ・ペリーが釣り上げた「22ポンド4オンス」という驚異的なバスと共に、永遠の伝説へと昇華しました。
この記事では、シュルタスの自宅キッチンから始まった慎まやかな創業の様子や、共同経営者を驚かせたテスト釣行での爆釣エピソード、ライバル社であるヘドンをも巻き込んだ謎めいた特許戦略、そして今なおオークションで高値を呼び、世界中のコレクターを熱狂させ続ける「パイキー」や「ウィグルフィッシュ」といった名作たちの歴史を、深く、そして熱く掘り下げていきます。
では!!世界記録バスを釣ったルアーの原点。クリークチャブの驚愕の歴史!の始まりです(^O^)/
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クリークチャブ誕生! ギャレットの三人組が起こした革命
物語の始まりは、1910年代初頭のギャレット。B&O鉄道に勤める一人の発明家、**ヘンリー・S・ディルズ (Henry S. Dills)**の奇妙な趣味に、近所の人々は首を傾げていました。彼は仕事が終わると、自宅の浴槽や鉄道の燃え殻穴(シンダーピット)に水を張り、手ずから削り出した木片を浮かべてはその動きを飽くことなく観察していたのです。これが、後に世界を席巻するルアーの原型でした。

ディルズの情熱と才能に可能性を見出したのが、二人の地元の名士でした。後にギャレット市長となる起業家の**ジョージ・M・シュルセス (George Schulthess)は、最初から乗り気だったわけではありません。
しかし、ディルズが開発した新型ルアーを携え、ワワシー湖でテスト釣行に臨んだシュルセスは、そこで次々と大物(ランカー)を釣り上げます。その驚異的な実力を目の当たりにしたことで、彼はこの事業への参画を即座に決意したと伝えられています。
もう一人は、金物・釣具店を営んでいたカール・H・ハインザーリング (C. H. Heinzerling)**です。ディルズの発明、シュルセスの経営手腕、そしてハインザーリングの販売網。三人の才能が融合した瞬間でした。
1916年の創業当時、クリークチャブ社の製造拠点はまだ工場ではなく、インディアナ州ギャレットのコーウェン通り(Cowen Street)とカイザー通り(Keyser Street)の角に建つ、ジョージ・M・シュルセスの自宅の一室に置かれていました。

多くの資料で創業年が1906年と1916年で混同されていますが、創業者間で交わされた手紙や当時の新聞記事によれば、彼らが正式にパートナーシップを結び、生産を開始したのは1916年のことです。こうして、浴槽から生まれたアイデアは一つの会社となり、彼らが最初に世に送り出した記念すべきルアーこそが、その名も「ウィグラー(Wiggler)」だったのです。
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ただの木片ではなかった。ルアーに命を吹き込んだ2つの革命的特許
クリークチャブ社のルアーが、なぜ他の製品と一線を画していたのか。その答えは、ディルズが生み出した2つの革命的な特許にあります。

- 特許1:金属製リップ(マウスピース) ディルズが1915年に出願し、1920年に承認されたこの特許(No. 1,352,054)は、ルアーの動きに生命感を与えました。この金属製のリップは、ルアーにリアルな「ウィグリング(身をくねらせる動き)」をもたらしただけでなく、驚くべきことに「3-in-1」の機能を持っていました。リップを標準位置で使えば潜って泳ぐダイビングベイトに、反転させて装着すれば水面で水しぶきを上げるサーフェスルアーに、そしてリップを完全に取り外せば水面を左右に滑るダーティングルアーへと姿を変えたのです。
- 特許2:ナチュラル・スケール・フィニッシュ(自然な鱗模様) 1918年に出願された特許(No. 1,323,458)は、ルアーの見た目を劇的に変えました。その手法は独創的で、ルアーのボディに「ウェディングベールの素材」のような網目状の布を被せ、その上からスプレー塗装を施すというもの。布を剥がすと、そこには本物の魚と見紛うばかりのリアルな鱗模様が現れたのです。
これら2つの技術がもたらしたものは、単に「よく動くルアー」と「リアルな見た目のルアー」ではありませんでした。リアルな動きとリアルな外観という、魚を騙すための二大要素が、これほど高いレベルで融合したのは初めてのことでした。この相乗効果こそがクリークチャブの革命であり、同社のスローガン「True-to-nature lures(自然に忠実なルアー)」を完璧に体現する原動力となったのです。
ヘンリー・ディルズが、ジェームス・ヘドン・サンズに特許を譲渡した謎
クリークチャブ社の黎明期、ヘンリー・ディルズはルアー製造における革新的な技術を次々と打ち出し、複数の特許を出願しました。記録によれば、彼は1918年の1月、6月、そして7月の計3回にわたり特許申請を行っています。3つ目の特許の存在も確認されていますが、ディルズの孫であるゴードン・A・ディルズ氏でさえ「その具体的な目的は資料からは判明していない」と語るなど、一部は謎に包まれたままです。
さらに不可解なのは、同年の11月18日に交わされた契約です。ヘンリー・ディルズは、これら一連の特許権の半分を、あろうことか競合他社である**ジェームス・ヘドン・サンズ社(James Heddon’s Sons)**に譲渡する契約書に署名しています。
当時、業界を牽引していたヘドン社に対して、なぜ彼が心血を注いだ特許権の半分を手放したのか。その真意や具体的な背景については、今なおクリークチャブ史における大きな謎として語り継がれています。
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3. 大統領から喜劇王まで虜にした、伝説のルアー「パイキー」
クリークチャブ社の数あるルアーの中でも、最も大きな成功を収めたのが「パイキー・ミノー(Pikie Minnow)」です。その人気は凄まじく、具体的な数字とエピソードがそれを物語っています。

まず、その販売数は驚異的です。1921年から1950年の間に、ジョイントモデルを除いて2300万個以上という、天文学的な数を売り上げました。
その魅力は、ホワイトハウスの執務室からハリウッドの華やかな舞台、さらには国際金融界の頂点にまで届きました。ハーバート・フーヴァーとハリー・トルーマンの二人の大統領、歌手のビング・クロスビー、喜劇王バート・ラー、そしてスウェーデンの謎めいた実業家イヴァル・クルーガーまでもが、この小さな木片の虜となったのです。
ミネソタ州のリーチ湖でマスキー(大型のカワカマス)が爆発的に釣れた際には、あまりの人気にパイキーが1時間85セントでレンタルされていたという逸話まで残っています。このルアーの誕生には、あるミネソタの男性からのアドバイスがありました。彼はアルコール漬けにしたパイク(カワカマス)のミノーをディルズに送り、こう告げたのです。
「この魚を模倣すれば、君はキラー(最高のルアー)を手にすることになる」
その言葉は、見事に現実のものとなったのです。
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80年以上破られていない世界記録。一匹のバスが釣り上げた伝説
クリークチャブ社の歴史における最大のハイライトは、釣り史に永遠に刻まれるであろう、一つの世界記録によってもたらされました。

その日は1932年6月2日。ジョージア州のモンゴメリー湖で釣りをしていた19歳の農夫、**ジョージ・W・ペリー (George W. Perry)の竿が、ありえないほど大きくしなりました。彼が苦闘の末に釣り上げたのは、なんと22ポンド4オンス(約10.09kg)**という巨大なラージマウスバスでした。

そして、この歴史的な一匹を仕留めたルアーこそが、クリークチャブ社の**「パーチスケール・ウィグルフィッシュ(Perch Scale Wigglefish)」**だったのです。
なお、使用されたルアーの種類については、後年の同社カタログにおいて「フィンタイル・シャイナー(Fintail Shiner)」で釣れたと記載されたケースも一部で見受けられます。しかし、現存するほとんどの資料や歴史的見解では、実際に記録を打ち立てたのは「ウィグルフィッシュ(Wiggle Fish)」であったと結論付けられています。
ジョージ・ペリーの記録は、2009年に日本の栗田学氏が琵琶湖で並ぶまで、77年間もの間、単独の世界記録として破られることはありませんでした。(※IGFAルール上、新記録には2オンス以上の差が必要なため、栗田氏の記録はタイ記録扱いとなります)
栗田氏が生餌を使ってこの巨大バスを釣り上げたのに対し、ペリーの記録は純粋にルアーによるものでした。「ルアーによる世界記録」という事実は、クリークチャブ社の実力を世界に知らしめ、そのブランドを伝説的な地位へと押し上げる決定打となったのです。
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繊細な作業を支えた女性たちと、手作業へのこだわり
クリークチャブ製品の卓越した品質は、その製造プロセスの裏側に隠されていました。特に注目すべきは、従業員の多くが女性であったことです。創業当初から、経営陣は「女性は色彩や細部への感性が優れている」と考えており、塗装などの繊細な作業を彼女たちに託しました。
製造プロセスは、驚くほどの手間をかけた手作業の連続でした。
- ルアーの素材には、北米産の高品質なホワイトシダーが使用されました。
- 一つのルアーが完成するまでには、下塗り、塗装、ラッカー塗装といった工程が12回から15回も繰り返され、そのすべてが手作業で行われました。
- リアルな輝きを放つガラス製の目玉や、フック、金属リップの取り付けも、一つひとつが人の手によって丁寧に行われていたのです。
第二次世界大戦後、需要が爆発的に増加すると、同社は近隣のアシュリーという町に**「Lures Inc.」**という子会社を設立。最盛期には、ギャレットとアシュリーの2つの工場で合計200人近くの従業員が、この伝説のルアー作りに従事していました。
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工場の閉鎖、そしてコレクターズアイテムとしての「第二の人生」
栄華を誇ったクリークチャブ社にも、時代の変化の波は容赦なく押し寄せました。1970年代後半、安価なプラスチックルアーの台頭、高品質な木材の確保難、設備の旧式化、そして何よりも創業家一族に後継者がいなかったことが重なり、経営は次第に困難になっていきました。

1978年、会社はアイオワ州のレイジー・アイク社に売却されます。しかし皮肉なことに、その直後にレイジー・アイク社自身が倒産。それでも倒産法の規定のもとギャレットでの生産はしばらく続けられましたが、1979年までに工場は完全に閉鎖されました。数々の伝説を生み出したその跡地は、現在、会社の功績を称える歴史記念碑が立つ駐車場となっています。
しかし、物語はここで終わりませんでした。1991年、ブランドは大手釣具メーカーPRADCO Fishingに買収され、パイキーをはじめとする一部の象徴的なルアーが再び生産されることになったのです。
そして、オリジナルのクリークチャブ・ルアーは、工場の閉鎖とともに「第二の人生」を歩み始めました。それらは今や貴重なコレクターズアイテムとなり、希少なモデルはオークションで数千ドルもの高値で取引されることもあります。その人気は、今なお衰えることを知らないのです。
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おわりに
クリークチャブ・ベイト・カンパニーの物語は、単なるルアーメーカーの盛衰記ではありません。それは、インディアナの小さな町から生まれ、創意工夫と品質へのこだわりをもって、世界中のアングラーの夢を形にしてきた文化と歴史の記録です。クリークチャブは、ただ魚を釣るための道具ではなく、釣りという文化そのものに深く刻まれた伝説の一部なのです。
もしあなたが、実家の屋根裏や物置で古いタックルボックスを見つけることがあったら、しっかりと中を覗いてみてください。そこに眠っているのは、単なる古いルアーではないかもしれません。それは、歴史の一部であり、数えきれないほどの物語を秘めた宝物でもあります。
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世界記録バスを釣ったルアーの原点。クリークチャブの驚愕の歴史!の記事が、あなたのバスフィッシングライフのサポートになれば幸いです。
では!! よい釣りを(^。^)y-.。o○
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